僕がとある精神科に通っていたあるとき、先生がこう言いました。
「人生は楽しいことより苦しいことのほうが多い。でも、ほんの少し楽しいことがあるからこそ頑張ることができる」と。
当時、僕は死にたくて死にたくて仕方がなかったので、この言葉を聞いて「???」となりました。
「それじゃあ人生はトータルでマイナスじゃないか。生きていたらマイナスになるのなら死んだほうがいいじゃないか」と。
苦しいことはやりたくない
先生はおそらく僕のことを慰めたり、アドバイスをしようと思って人生観を語ってくれたのだと思います。
でも、この考え方ってメンタルが健康な人に特有のものではないでしょうか。
よく考えてみてください。
我々は普通、楽しいことよりも苦しいことのほうが多い活動をしようと思うでしょうか。
学校で勉強したり、会社で働いたりするなどの社会で生きていくために必要な活動なら苦しくても我慢して行うでしょう。
しかし、やるもやらないも本人の自由な活動で苦しいことのほうが多ければ、まずやろうとは思わないはずです。
メリットや目的があるからこそ頑張れる
もしやるとするならば他にメリットがある場合です。
たとえばジョギングは運動が好きだったり体力がある人でなければ苦しい活動になります。
それでも人がジョギングを行うのはジョギングが体力向上や健康のためになるからです。
ジョギングそれ自体は苦しいことのほうが多いけれども、その外部にそれを上回るメリットがあるからこそ我慢して走ることができるのです。
では、人生はどうでしょうか。先ほどの「ジョギング」を「人生」に置き換えてみましょう。
「人生それ自体は苦しいことのほうが多いけれども、その外部にそれを上回るメリットがあるからこそ我慢して生きることができる」となりますね。
ここに問題が生じます。ジョギングと人生の構造には差があるのです。
ジョギングは人生の一部分であり、外部が存在します。
しかし、人生は人間にとって全体なのです。
正確には宗教を信仰しているか否かで話が分かれてきます。
死後の世界や生まれ変わりを信じている場合には、現世での生き方が来世での生き方につながってくるため、来世でいい思いをするために現世を頑張るという考え方をすることができるのです。
しかし、無宗教の場合には死んだらそれで終わりだと思っているわけですから、この人生以外には何もありません。
来世という目的のために現世を頑張ることはできないのです。
人生を頑張るために必要なこと
それでも頑張るとするならば、人生自体を目的とするか、人生に擬似的な外部を作り上げなければならないのです。
人生自体を目的とするととはどういうことかといいますと、「せっかくこの世に生を受けたのだから、無駄にはしたくない」のような命それ自体を尊いものと考えるような態度がそれに当たるでしょう。
人生に擬似的な外部を作り上げる例としては「大切な家族のために生きる」というような生き方が挙げられるでしょう。
次の図をご覧ください。
「私」の外部に「家族」が存在しています。
私の人生において、私は私以外の存在のために生きるということです。
しかし、家族は確かに私とは別の存在ではあるのですが、家族が登場するのは私の人生においてであり、家族との関わりもまた私の人生の一部分でしかないのです。
ですから、”私にとって”家族の存在が人生の外部として存在しているわけではなく、あくまで擬似的な外部として想定することができるというわけなのです。
価値が生きる原動力になる
人生自体を目的とすることと人生に擬似的な外部を作り上げることとで共通しているのは何事かに価値を見出しているということです。
これらはメンタルを病んでいる人間にとってはなかなか難しいことです。
というのも、うつ状態においては物事に価値を感じることが難しくなってしまうからです。
それにうつ状態に陥ったということは多くの場合、人間関係や仕事などでうまくいっていないことを表します。
家族と仲良しであれば家族に、仕事が順調であれば仕事に価値を見出すことができますが、そうでないのにそれらに価値を見出すことは難しいでしょう。
逆説的にそれらに大きな価値を見出しているからこそ現状に不満を抱いてしまうということも言えるかもしれませんが。
いずれにせよ生きづらいことに変わりはありませんね。
こうした理由から、冒頭の先生のような考え方をすることはメンタルを病んでいる人間にとっては難しいのです。
人生の本質、あるいはその有無を見極める
このように考えてみると八方塞がりのような気がしてきますが、そもそも人生を楽しいか苦しいかで価値判断することがナンセンスなのではないかと思います。
それらの感情は生物が生きるうえで必要であるから身につけたものであって、人生の本質ではありません。
冷めた見方をするならば、人生自体も別にたいしたものではありません。
人間が生まれてから死ぬまでのすべてを人生と呼んでいるにすぎません。
男と女が生殖を行ったところたまたまその子が生まれ、死ぬまで生きたということでしかないのです。
元々意味のない人生を付随的な現象である感情で価値判断しようとするのが間違いなのです。
僕は冒頭で楽しさと苦しさを足し算して”トータル”で人生はマイナスだと考えましたが、これもまた間違いです。
感情は数字のように簡単に足し引きできるようなものではありません。
そして、苦しさは必ずしもマイナス面しかないわけではありません。
苦しいことがあったからこそ、よりいっそう楽しさを味わうことができるのです。
そういう意味では苦しさは楽しさを増大させる働きを持つとも言えるのです。
逆もまたしかりで楽しい思い出があったからこそ今が余計につらいということもあります。
この辺はそう単純でもないのです。
まとめ
人生はもしかしたら楽しいことよりも苦しいことのほうが多いのかもしれません。
何かに価値を見出だせる場合にはその価値を追求するために苦しさを我慢できるでしょうが、メンタルを病んでいる場合にはなかなか難しいものです。
しかし、楽しさや苦しさといった感情は付随的なものであり、人生の本質とはなりえません。
また、人生そのものもたいしたものではないという見方をすることもできます。
苦しさは確かに今ここに厳然と存在するけれども、それをどの程度重要視するかは本人に委ねられているのです。
感情も人生もたいしたものではないと考えるようになったら、その先は自分で決めるのです。