うつ病などで「死にたい」とこぼす人がいるときや、人生がひっくり返るような大きな失敗をして今にも死んでしまいそうな人がいるとき、「自殺は最悪の選択肢である」と言う人がいます。
この発言はもしかしたら苦しんでいる相手をさらに追い詰めてしまうかもしれません。
「自殺は最悪の選択肢である」という考えは別に間違いではありません。
しかし、それはあくまでその人にとっては正しいにすぎません。
他人には他人なりの考えがあるかもしれないのです。
それを検討するためにこの問題について詳細に分析していきます。
生には絶対的な価値があるか?
「自殺は最悪の選択肢である」という考えを裏返すと生に対する絶対的な肯定が見てとれます。
何がどうなろうが生きてさえいればそれでよいという考え方です。
つい数十年前にお国のためにと勇ましい戦死を遂げた軍人がいたことや、数百年前に生き恥をさらすまいと自死を選んだ武士がいたことなどを考えると、この考え方はいくぶん文化的な性質を持つものだと言うことができます。
現代社会においてはこれまでとは異なり、たとえみっともなくても生にしがみつくことがよしとされるのです。
この考え方は絶対に正しいわけではなく、生に最高の価値を見出す人にとってのみ正しくなるのです。
死にも価値がある
では、目の前の相手は生に最高の価値を見出しているのでしょうか。
どんなにつらくても、みっともなくても、希望がなくても、生きていることが何よりも大切なことだと考えているでしょうか。
これまでに数多くの自殺者がいたことを考えると、そうではない人たちがたくさんいたということです。
彼らは生きることよりも死ぬことを選んだのです。
自殺の理由は様々ですが、その多くはつらい生から逃げ出すために自殺したのです。
彼らにとって生の価値は死の価値を下回ったのです。
もしかしたらかつては彼らも生に対する絶対的な肯定感情を抱いていたのかもしれません。
しかし、生において数々のむごい仕打ちを受け続けてきた結果、生に対する否定的な感情が芽生えてしまったのではないでしょうか。
人間は本能的に死を恐れますから、自然と生を選ぶような考え方を持つようになります。
さらに現代社会では命は尊いものであるという教育を受けますから、多くの人々が「自殺なんてとんでもない」と考えるのでしょう。
しかし、中には生に対する絶対的な肯定感情を引き起こすそれらの要因を上回るほどの強い要因によって生に対する否定的な感情を抱き、死を選びたくなってしまう人々がいるのです。
彼らに「自殺は最悪の選択肢である」というような考えを押しつけることはよいことでしょうか。
彼らにとってもはや生にそれほどの価値はないのです。
死は彼らにとって救済であり、最後の希望ですらある場合もあります。
生きるのがあまりにもつらくて逃げ出したいのに、他人から口を出されて死ぬことすらも禁じられてしまったらどんな気持ちになるでしょう。
想像してみてもらいたいものですが、こればかりは本当に死にたいと思ったことのある人でないと難しいかもしれません。
他人の人生は他人のものである
「自殺は最悪の選択肢である」と説くことのもう一つの問題点はその言葉で他人の自殺を引き止めたところで、発言者は相手の人生になんらの責任を負うこともできないということです。
他人の人生は他人のものであり、その苦しみもその人のものです。
誰かが代わりに苦しみを負担してあげることなどできないのです。
もしあなたが他人の自殺を引き止めたとして、あなたは相手のために何をしてあげることができるのでしょうか。
相手の人生をサポートする用意もないのに無責任に言葉を投げかけてよいのでしょうか。
苦しみを抱えた人が死なずに生き続けるということはそれだけ苦しみが長引くということでもあります。
もちろん、病気が治って苦しみから解放され、「あのとき死ななくてよかった」と思うようになる日が訪れないともかぎりません。
しかし一方で数年、数十年と病気で苦しみ続ける人がいることも確かです。
本当にその人のためを思うなら、自殺を引き止めるべきなのかどうか、いま一度よく考えてみたいところです。